「海のおくりもの」

今日、曇り空の下を歩いていた。
ボクは今フィリピンのとある島にいる。
一昨日この島に到着したのだけれど、昨日は一日中ホテルの部屋で寝転がっていた。予想以上に人が多くてすこし心が曇っていたのかもしれない。
独りの時間を作ってゆっくりと瞑想のようなものをしたいと思っていたので、なんとなく人ごみの中に出て行く気になれなかったのだ。
けれど、一日部屋に居ても気持ちは晴れない。
だからボクはとりあえず歩こうと思ったのだった。
ホテルから一番大きな砂浜へは徒歩10分。
この砂浜には人がたくさんいる。
けれど砂浜はとても広いので、ともかく人の少ない方を求めて歩きはじめた。
時折物売りの人が声をかけてくるが、まわりの人々はそれぞれの時間を楽しんでいる。ボクに干渉してくるものはほとんどなかった。
ひたすらビーチを歩き続ける。
だんだんと人影がまばらになり、すこし気持ちが軽くなってくる。
立ち止まって海を見つめると、海の濃い青と空の淡い青のコントラストが美しい水平線を作っていた。
白い砂浜には規則正しく波が打ちよせている。
「ボクは世界中でもっとも幸せな場所の一つにいるかもしれない」
ふとそういう言葉が頭の中に浮かんだ。
またすこし気持ちが軽くなった。
それとともに、人ごみに見えていた人たちがくっきりとそれぞれの人生を持った人間に見えてきた。
どんな日常から離れてこの島に来たのだろう。
大都会の喧噪の中の日常から、郊外の建て売りハウスの日常から、いや、山の都から来たのかもしれない。
異なる肌の色、異なる生活習慣。
ボクは歩きながら彼らの日常に想いをはせた。
偶然にもこの瞬間、この場所で時間を共有している不思議。
彼らにとっては、景色の一部としてボクは存在しているのかもしれない。
ボクにとっても景色の一部として彼らは存在していた。
それぞれが景色を作りあってこの風景が存在する。
この場に居合わせる人々への親近感がわいてきて、ボクはこの島が少し好きになりはじめた。

歩き続けると、人が徐々に少なくなってきた。
この辺りの砂浜には海藻が打ち寄せられていた。
白い砂浜に異質なものがあるようで、ボクにはあまり美しいとは思えなかった。
海藻をさけるため、足元を見ながら歩くことになった。
海藻は波がさっきまで届いていた場所に打ち寄せられている。
これは波の痕跡なのだ。
いや、波の痕跡は海藻だけではなかった。
よく見ると、海藻と一緒にとても美しい珊瑚のかけらが漂着していたのだ。
ただの美しい砂浜は一瞬で巨大な博物館へと変貌した。
ボクは夢中で足元の宝物を見ながら歩き続けた。
人から離れようとあてもなく歩いていた散歩に、一つの目的が生まれた。

美しい海のおくりものに出会うのだ。

珊瑚は天の川のように波の痕跡を浜辺に残している。
この浜辺にたどり着くまでどういう旅をしてきたのだろう。
この季節、島には絶えず西風が吹いている。
時々かなり強い風になり、まるで台風のような時もある。
この砂浜は西側に面しているので、絶えず海からの西風が吹いている状態だ。
沖縄の人から聞いたことを思い出す。
「台風は海をかきまぜて珊瑚をきれいに洗ってくれる。」
この島でも、この西風が珊瑚を洗い、そしてかけらをこの浜まで運んできたのだろう。
かなり遠浅の海辺は、細かくくだかれ堆積した珊瑚の地層だ。
珊瑚のかけらは島に漂着し、すこしずつ削れてこの砂浜の一部になっていく。
地球の営みの中で偶然作られたこの島の浜辺。
美しい珊瑚はこの島を象徴する宝物なのだ。

ボクは目についた珊瑚を手にとって眺めた。
この珊瑚はとても美しい。
形もいいし、白い色も素晴らしい。
無数に広がる珊瑚のかけらの中、これが特別に見えてくる。
何故美しいと思うのか、それはなんとも説明が難しい。
人を好きになる時の感覚と近いかもいしれない。
どれだけ理由を重ねても、本当の理由は言葉にできない。
その時、その場所で出会って、なぜか好きになってしまうのだ。

景色にふいにコントラストができる。
他のものが背景になり、そこだけがすこし光って見える。
ボクは近づき触れてみる。
それはボクにとって特別の存在になる。
他のものと交換不可能なもの。

これはとても繊細な感覚だ。
もっといいものを、と思ってしまうとあまり素敵なものに出会えない。
光って見えることなどなくなってしまうし、どれもいいものに見えてしまうのだ。
このことに気づいたのは宿で拾った珊瑚を眺めていた時だった。
ふと手に取ったものが後で見ると一番素晴らしい。
一生懸命探したものはなぜかあまり愛着が感じられない。
たくさん採ろうとしてもいいものが得られるわけではない。
本当に素晴らしいものはどうしても数が限られるのだ。

好みは無数に存在するので、ボクが美しいと思うものを他の人が美しいと思うかどうかはわからない。
とても不確かな感覚だけど、どこかで自分の美意識を信じている自分もいる。
美しいものはボクらの意識の深いところでつながっていて、きっとボクが美しいと思ったものは他の人にとっても美しいはずなのだと。

ボクは時間を忘れて海からのおくりものを探しながら歩きつづけた。
ずっと砂浜ばかり見ていたのだが、ふと目をあげるとそこに一匹の茶色の犬がいた。
この島の犬はアジアの多くの国と同じように、やせっぽちでびくびくした態度をとることが多い。飼い犬は日本の犬とさして変わらないのだが、野生の犬は人間を見るとひくつな表情を浮かべて逃げるか、さもなければ少しさけるようにすれちがう。
ボクが出会ったその犬も、一瞬ひくつな表情を浮かべた。
が、ボクに敵意がないとわかったのか、なぜかこちらに近づいてくる。
ボクは猫が一番好きなのだが、犬も好きだ。
だが、野犬は多くの菌を持っていることがあるのでさわりたくはなかった。触れられるくらいまで近寄って来た犬に、仕方なく「シッ、シッ」とすこしするどい音を響かせて追い払わなければならなかった。
案の定、犬は再びひくつな表情を浮かべてからくるりと向こうを向いて歩いていった。
ボクは「すまないが仕方なかったな」と思いながらその後ろ姿を見送った。
犬はとぼとぼとしおらしく歩いていた。
が、しばらく行くとふいにこちらを振り返った。
その時、ボクは犬としっかり目があってしまったのだ。
なぜか今度はボクがすこしひくつに目をそらす番だった。
彼を追い払ったやましさがあったのかもしれない。
一瞬の出来事だったが、犬とボクの関係が微妙に変化した。

ボクは気を取り直して、知らぬ顔で海のおくりものを探すことにした。
どうせ犬はボクに用はないはずだ。
ボクは再び素敵な珊瑚を探し、とぼとぼと歩いた。
それからも、いくつかの素晴らしい珊瑚を拾い、いくつかの素晴らしい貝殻も拾った。
砂浜の終わりはもうすぐだ。
人はいなくなり、海の音だけが心地よいリズムを奏でている。
ようやくボクが求めていた場所にやってきたのだ。
そう思いながら、美しいさんごの形を手にとって眺めながら歩いていた。


と、視界の端に茶色のかたまりがとびこんできた。
はっとしてそのかたまりに目をやると、さっきの犬だ。
いつ追い越されたのだろう。
ボクの歩く先ですわっている。
しかも、そのすわり方が印象的だ。
さっきまでのひくつな態度はなくなり、まるで友人の家でくつろぐような姿なのだ。
といっても、向こうを向いているので顔は見えない。
ボクはわざと気がつかないふりをしながら拾いものを続けて彼の傍らを通りすぎた。
そして、今度はボクが振り向く番だった。
ボクは何気なく、自然に犬の方に振り返った。
彼は半分目を閉じているようで、けれどしっかりとボクの気配を感じ取っていた。
その瞬間、何かがつながった。
たしかにボクらは微笑みあったのだ。

ボクはとても楽しくなった。
そして、再び海のおくりものを探し始めた。
すこしすると、今度ははっきりと、犬はボクのすぐそばを通り越してしばらく先まで歩いていった。
そして、彼はまたくつろいでボクの視野に入る浜辺に横たわったのだ。
ボクが拾いものをしながらゆっくり彼を追い越すと、彼は再びボクを通りこしてすこし先で横たわる。
何度も同じことを繰り返した。


ボクらは二人で浜を旅する仲間になった。
旅の途中で出会った道連れだ。
不思議な一体感の中、ボクはとても幸福な気持ちで満たされていた。
お互いに干渉することはない。
ただその場を共有する仲間。

どれくらいの時間が経っていただろうか。
長かったようにも思うし、短かったかもしれない。
砂浜の端までいって折り返し、再び人がいる浜辺へと戻ってくるまでボクらは一緒だった。
ボクのかばんは美しい珊瑚のかけらですこし重くなっていた。

終わりは必ずやってくる。
徐々に人が増えてきた浜辺で、ふと気がつくと彼とはぐれていた。
さっきまでの特別な時間は煙のように空に消えていた。
ざわざわと人のうごめく音が戻ってくる。
砂浜の珊瑚も見当たらない。
魔法がとけ、ボクの目の前には再びはじめの砂浜が戻ってきたのだ。

ボクはおおきな深呼吸をひとつした。
そして、砂浜を後にした。
帰り道、世界がすこし変わったような気がした。


 

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