「映像の歴史哲学」

「映像の歴史哲学」 多木浩二著 今福龍太編 みすず書房

友人にすすめられて読んでみました。
大学時代を思い出す内容で、なんか懐かしかったです。
多岐にわたる内容なので、なかなか本の内容を説明することは難しいです。
が、とても面白かったので感想というか、自分の考えを書いておこうかと思います。


土に染み込むような仕事

彼が価値をおく歴史、写真への考察はとても刺激的ですが、僕にとってはとても安心する感覚でした。
印象ではなく慣れの中から、イベントではなく日常の中から浮かび上がってくること。
土に染み込んで刻まれる思索の足跡はそれが確かなものならば、時にさらされた後、より鮮明に立ち上がってくるように思われます。
そしてそれは、圧倒的多数の名付け得ない歴史の断片を伴って、なんとかそれをつなぎとめる言葉の鎖として。
残り続けるものは、日常とつながっているものであり、些細なことがら、しかし確かな生きていた日々の積み重ねにこそ他ならないのではないでしょうか。


物語の力

僕が興味深く思ったのは、物語についての考察でした。映像がつなぎあわされた時、それは一つの物語になります。そしてそれは神話性をもつ物語として利用され、強力な政治的イデオロギーの躍進力に使われた過去があります。その力はある種の陶酔、宗教的力を持つものとして反省的に解体されたように思います。現代の映像は、一度解体され、断片を再構成した「物語」として私たちはその力を外から見つめられるように映像が作られていると思います。自覚的にせよ、無自覚にせよ、そういうとらえ方から出発しているということです。映像が溢れかえり、「物語」として客観化されたそれぞれの映像は物語の力を失って、もはやそれは断片となって、絶え間なく私たちにつきまとっているのが現状ではないでしょうか。今、私たちは大きな物語をどこかで欲しているように思います。そのうちの一つがナショナリズムかもしれませんし、陰謀史観かもしれません。しかし、物語は強力な道具だから、大きい物語はその輝きも大きいが影も大きい。もちろん、その力自体に善悪はないと思うのですが、扱いはとても慎重になる必要があると思います。私たちは物語なくして生きて行くことはできない、けれどそれは与えられたものであってはならないと思います。なぜなら、私たちは自分の物語を紡ぐことからしか出発できないから。それはちっぽけかもしれませんが、唯一、自ら光りを発する物語として存在すると思うのです。


届きえぬもの

絶え間ない日常から、歴史、人類全体をとらえることは限りなく難しいことだと思います。しかし、私たちはつつましい日々の暮らしを過ごしながらも歴史や全体をとらえる欲求を持ち続けるのではないでしょうか。けれどそれは届きえぬものなのかもしれません。はじめからそれはわかっているのです。絵を描きはじめると、どこまでいっても完全な絵には届かず、描きえない向こうの絵を求めて欲求がわきあがってきます。自分が終わる瞬間までその思いは続くし、その欲求があることこそが生きているというこのなのかもしれません。先人の残したものを見る時、その人が届きえなかったものが何であるということよりも、届きえぬものに挑んだ姿が刻印されているように思えてきます。


言葉を扱うのはとても難しいですね。
思っていることを書こうとすると、どうもずれていってしまうし、そもそも何を思っていたのかさえ怪しくなってくるからどうしようもないです。


Takao


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