「たべものをつくるということ」

対談形式でのお話、はじめのテーマは「たべものをつくるということ」です。

Takao
僕は、赤目に来て自分ではじめてお米をつくりはじめました。
今3年目ですが、自分でお米をつくることってあらためて安心だなと思うようになってきました。大きなしくみ、たとえばお金のしくみであったりするんですが。そのしくみに大きく依存していればいるほどそのしくみが壊れた時にものすごく怖いです。
もちろん依存ゼロは難しいし大変だと思いますが、できれば自分なりに安心できる小さなしくみを持っていることは大切だと思います。
食べ物は、今はスーパーに行けばお金さえあれば手に入ります。けれど、もし物流がとまったら、お金の価値が暴騰したら。。。自分でたべものをつくること、その技術を身につけておくって大切だなぁと思いませんか?

michiko
そうだね。
私はあまり怖いことは考えないけれど・・・(考えたくないのかな)。
自分でたべものをつくることができたら、何かが起こった時には安心感はありますね。
生きることに食べることは直結してるものね。

私にとってたべものをつくること。
私も赤目に来て少しずつ、自分のたべるものをつくり始めました。
生きるために何かを自分の手で作ったりなんかしなくていい、現代。
だからこそ、『自分の手で何かをつくりたい。自分のたべるもの作りたい!!』という思いが先行していたかな。毎日食べるお米はどうやってできるのだろう。成長するのだろう、という興味もあったと思います。

Takao
僕は全然自分で作ることに興味がなかったのです。
けれど、少し田舎のこの場所で生活するようになって、そして子どものころを思い出して自分で作りたいなぁと思うようになりました。
みっちゃんと違って僕はお米以外はぜんぜんです。これからの課題だな。
生きること、食べること、自分で愛情を込めて作ること。
この愛情の部分がすごく大切なように思います。
お金と交換に素敵なものを手に入れることも楽しいのですが、不器用でも自分で作ったものを愛するということ。
うまくいかなくても、自分のことがちょっぴり好きになるように思います。

michiko
その気持ち、よくわかる。
愛情を込めてつくること。
自分の手で作っていると、愛着というか愛情というものが本当に出てきます。
私は赤目に来て、小麦もここで初めて育てて、パンを焼いたり。
多くはできないけれど、小さいけれど自分の手から生まれることは、上手くいかなくても嬉しいものです。

Takao
そうですよね。僕もみっちゃんもよく近所の方から野菜をもらったりすると思うのですが。
僕も自分が作ったお米を人に配りたくなっちゃうんですよね。
その感覚ってすごく大切だと思います。
まぁ、気をつけないといけないのは、自分で作ったというのは正確じゃなくて自然のお手伝いした感じだということ。
自然の中で作業してるとあらためて自分のちっぽけさがわかり、自分で作った!っていう感覚じゃなくなってきます。
今放棄田の修復をしてるんですが、いろいろと自分の力が及ばないことを思い知らされます。

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